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日本統治時代の台湾鉄道 ブログトップ
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日本統治時代の台湾鉄道 駅員は室外勤務中禁煙の指示 [日本統治時代の台湾鉄道]

明治30年6月4日、台湾総督府の鉄道はまだ民政局通信部の臨時鉄道掛でしたが、この長である鉄道掛長が「駅務員の室外執務中喫煙を禁止する」という指示を出しました。なぜこの指示が出たかは不明です。現在の喫煙事情を考えると随分進んだ指示だったのか、あるいは何か問題が起こったのか、背景がどうなっていてこの指示が出たのか、興味が尽きません。

台湾鉄道 入場券の歴史 [日本統治時代の台湾鉄道]

2013年5月31日をもって、台湾鉄路管理局の入場券発売は廃止されました。百年以上続いた駅の入場券発売ですが遂に廃止です。そこで調べた日本統治時代の入場券の発売ですが、歴史は以下の様になっています。

臺灣總督府報 第321號 明治31(1898)年7月5日
告示第40號
明治31年8月1日ヨリ臺北新竹兩停車場ニ於テ乘客送迎者ノ爲入場切手ヲ發賣シ切手一枚ニ付料金五錢ト定ム但該切手ハ停車場ノ都合ニ依リ枚數ヲ限リ發賣スルコトアルヘシ
明治31年7月5日   臺灣總督 男爵兒玉源太郎


府報 第672號 明治33(1900)年1月12日
告示第2號
明治33年1月15日ヨリ基隆停車場ニ於テ乘客送迎者ノ爲入場切手ヲ發賣シ切手一枚ニ付料金五錢ト定ム但シ該切手ハ停車場ノ都合ニヨリ發賣ヲ停止シ又ハ枚數ヲ制限スルコトアルヘシ
明治33年1月12日    臺灣總督 男爵兒玉源太郎

府報 709號 明治33年3月15日
告示第21號
明治33年3月15日限リ新竹停車場ニ於ケル乘客送迎者ノ入場切手發賣ヲ廢止ス
明治33年3月15日    臺灣總督 男爵兒玉源太郎

府報 第1157號 明治35(1902)年5月20日
告示第63號
明治35年6月1日ヨリ臺南停車場ニ於テ入場券ヲ發賣ス但シ其ノ料金ハ一枚ニ付五錢トス
 明治35年5月20日  臺灣總督 男爵兒玉源太郎

府報 第1181號 明治35(1902)年7月5日 
告示第94號
明治35年7月5日ヨリ新竹停車場ニ於テ乗客送迎者ノ爲入場切手ヲ發賣シ一枚ニ付料金五錢ト定ム但シ該切手ハ停車場ノ都合ニ依リ發賣ヲ停止又ハ枚數ヲ制限スルコトアルヘシ
 明治35年7月4日      臺灣總督 男爵兒玉源太郎

府報 第1803號 明治38(1905)年8月4日
告示第97號
明治38年8月5日ヨリ臺中停車場ニ於テ入場券ヲ發賣シ其ノ料金ハ一枚金五錢トス但シ停車場ノ都合ニ依リ枚數ヲ限リ發賣スルコトアルヘシ
 明治38年8月4日       臺灣總督 男爵兒玉源太郎

府報 第2757號 明治42(1909)年7月31日
告示第109號
明治42年8月1日ヨリ彰化、嘉義及打狗停車場ニ於テ乗客送迎者ノ爲入場券ヲ發賣シ一枚ニ付料金五錢ト定ム但シ停車場ノ都合ニ依リ枚數ヲ制限スルコトアルヘシ
 明治42年7月31日 臺灣總督 伯爵佐久間左馬太

府報 第1177號 大正5(1916)年12月14日
告示第133號
大正5年12月16日ヨリ阿緱停車場ニ於テ乘客送迎者ノ爲入場券ヲ發賣シ一枚ニ付料金五錢ト定ム但シ停車場ノ都合ニ依リ枚數ヲ制限スルコトアルヘシ
 大正5年12月14日    臺灣總督 男爵安東 貞美

府報 第1859號 大正8(1919)年6月15日
告示第79號
大正8年7月1日ヨリ宜蘭停車場ニ於テ旅客送迎者ノ爲入場券ヲ發賣シ一枚ニ付料金五錢ト定ム但シ停車場ノ都合ニ依リ枚數ヲ制限スルコトアルヘシ
 大正8年6月15日       臺灣總督 明石元二郎

府報 第2073號 大正9(1920)年3月24日
告示第40號
大正9年4月1日ヨリ停車場入場券ノ發賣驛及料金ハ鐵道部長之ヲ定メ當該驛ニ掲示ス
停車場入場券發賣驛及料金ニ關スル從來ノ告示ハ之ヲ廢止ス
 大正9年3月24日     臺灣總督 男爵田 健次郎

府報 第2078號 大正9(1920)年3月31日
入場券規程 入場券規程左ノ通定メ大正9年4月1日ヨリ之ヲ施行ス(鐵道部)
大正7年12月掲第50號入場券ノ通用期限ニ關スル件ハ本掲施行ノ日ヨリ之ヲ廢止ス
   入場券規程
第一條 旅客送迎ノ爲左記停車場乘降場ニ入場スル場合ハ入場券ヲ所持セラルヘシ但シ四歳未滿ノ小兒ハ此ノ限ニアラス
  基隆、台北、艋舺、桃園、新竹、苗栗、葫蘆墩、臺中、彰化、斗六、嘉義、臺南、打狗、鳳山、阿緱、宜蘭、花蓮港
第二條 入場券ノ種類ハ普通入場券、囘數入場券(一册二十枚綴)ノ二種トス
第三條 入場券ノ料金左ノ如シ
  普通入場券 臺北  一枚金十錢
        其ノ他 一枚金五錢
  囘數入場券 臺北  一册金二圓
        其ノ他 一册金一圓
第四條 入場券ノ通用期間ハ左ノ通トス
  普通入場券 發行當日限リ
  囘數入場券 發行當日共六十日間
第五條 入場券所持者ハ入場ノ際該券ノ改鋏ヲ受ケ出場ノ際ニ之ヲ係員ニ交付セラルヘシ
 入場券ヲ紛失シ又ハ出場ノ際交付ヲ爲ササルトキハ更ニ相當入場券料金ヲ收受ス
第六條 入場券所持者ハ列車内ニ立入ルコトヲ得ス
第七條 入場券料金ハ如何ナル場合ト雖モ之カ拂戻ヲ爲サス
第八條 取締上必要アルトキハ入場券ノ發賣ハ一時之ヲ制限シ又ハ停止スルコトアルヘシ






日本統治時代の台湾鉄道 入場券の規則 [日本統治時代の台湾鉄道]

日本統治時代の台湾總督府鉄道では、大正9年に入場券規程を定め4月1日より施行しました。
それ以前も入場券については告示で個別に定められていましたが、ここで規程化されました。

入場券の発売駅は、基隆、台北、艋舺(万華)、桃園、新竹、苗栗、葫蘆墩(豊原)、台中、彰化、斗六、嘉義、台南、打狗(高雄)、鳳山、阿緱(屏東)、宜蘭、花蓮港(花蓮)です。
料金は発売当日限りの1回用は台北駅のみ10銭、他は5銭でした。他に60日間有効20枚綴りの回数券もあり、台北駅は2円、他は1円でした。
4歳未滿の小児は無料で、現在の日本の入場券と年齢の区分が異なります。列車内に立ち入ることは出来ないというのは同じですね。



意外に寒い台湾 臨時台湾鉄道隊 外套を追加請求  [日本統治時代の台湾鉄道]

最初に台湾鉄道運営したのは陸軍の臨時台湾鉄道隊だが、この部隊は工兵隊に属し鉄道建設は得意でも運営となると建設とは勝手が違うので、実際には逓信省鐵道局からの出向者あるいは転籍者が担当した。当時制服・制帽は業務を行うため、特に運転関係の権限の有無と密接に関連していたので、どの鉄道でも着用していた。台湾でも明治28年(1895年)7月には「鉄道従事員員被服支給規程」が定められ、9月に臨時台湾鉄道隊が編成されるときに陸軍の費用で逓信省に依頼して委託製作した。
ところがその時には、台湾は暑いので外套を請求しなかった。また雨が多いということに気がつかず雨衣(レインコート)も請求しなかった。
ところが、実際には寒いことも多く、雨も多いということで翌明治29年(1896年)5月になって、外套と雨衣を支給して欲しいと台湾臨時鉄道隊から陸軍省に請求している。9月頃の暑さでは外套は想定外だったが、冬および雨季を経験すると意外に寒いということが実感したということだろう。

台湾中部横断鉄道はまだない(2) 鈴木技手の調査隊 [日本統治時代の台湾鉄道]

明治30年(1897年)1月の深堀大尉の中部横断鉄道の調査から8年後、明治38年(1905年)6月台湾総督府鉄道部長の職にあった後藤新平は将来の鉄道構想の企画を台湾總督に報告した。そこには、現在の北回りおよび南回り鉄道の外、中央横断鉄道についても述べられていた。しかし具体的な踏査はさらに後となる。
11年後の明治41年(1907年)1月台湾総督府鉄道部技手鈴木善八よる調査が行われた。深堀隊は中央山脈の手前で先住民の襲撃を受け交戦して全滅し、調査を果たすことはできなかったが、鈴木技手の調査は中央山脈を越えて東海岸に到著することができた初の鉄道調査となった。
鈴木技手は1月4日台北を出発し埔里に到著、準備を整えて8日埔里を出発し18日東海岸の花蓮港庁下渓口派出所に到着した行程だが、それは想像を超えた凄いものであった。隊は埔里を出発し深堀大尉が超えることが出来なかった霧社を容易に通過したが、その後途中には道路といえるものはなくなり、けものみちを踏破した。本来は測量しながら通過すべきであったのに、あまりの険しさにそれもできず、わずかに概算の距離と高低差を把握するのみであった。さらにその後は苦労の連続で、山が深くなるほど道は険しく樹木はないはげ山になるが、ついに能高山(3262m)の山頂に到達する。これがいわいる分水嶺であるが、そこを超えたあとも、数百メートルのわたる断崖絶壁がそびえる山で、まったく樹木がない崖の山肌を通過した。その後、かつて「賀来警視返しの洞門」(花蓮側から賀来警視が山に入ってきたが、これ以上進むことができないと引き返した地点)に到達し、その後は花蓮に到着した。
この調査からも中央山脈を貫く鉄道は非常に技術的困難を伴い、かつ急勾配であるため鉄道の輸送量も限られ、建設したとしてもその運営には多大の費用を必要とするので建設の可否は早急に決定すべきではなく、測量を行った上で慎重に決定すべきとしている。ただし、この報告が書かれた明治41年には縱貫鉄道の建設が完成し、台湾の鉄道建設が一段落した感覚があり。熟練した測量技術を持つ職員が職場を失い分散四散することは鉄道の将来にとって好ましいことではないという点が強調されている。人材と技術いう点で、なにか現代のわれわれにも耳が痛い含蓄が含まれているような気がしてならない。


初期の台湾鉄道 鉄道現業の職名は英語のまま [日本統治時代の台湾鉄道]

台湾鉄道の初期の資料を見ると、しぐなるめん、ぽいんとめん,やーどめんなどという、英語をそのまま日本語標記にした言葉がでてきます。明治30年頃はこれらの職名は日本語化されていなかったのですね。
日本語化されていたのは
線路工夫(保線係員)、測量工夫(鉄道関係の測量係員)、建築工夫(鉄道関係の建築物の設計施工)、大工、煉化及石工、木挽、電信工夫、機関方(機関士)、器械職工、鍛冶工、火夫(機関助士)、車輛検査職、注油夫(機関車検査係)、炭水夫、駅夫(駅員)がありました。
しぐなるめん=信号係、ぽいんとめん=転轍係、やーどめん=操車係、ということでしょうね。
確認していませんが、日本国内でもこれらはそのまま英語の発音の音訳を用いたのだと思います。
() の中は私の推測で詳細に調査していません。すみませんが今後を期待してください。

日本統治時代台湾鉄道の今日 3月15日 [日本統治時代の台湾鉄道]

明治33年(1900年)3月15日
明治33年3月15日限リ新竹停車場における乗客送迎者の入場切手発売を廃止しました。
(入場切手というのは入場券のことです。この頃の用語は今と異なるものがあり運賃を賃金と言っていたりします。新竹駅では明治31年8月1日から1枚5銭で発売されていました。ここで廃止されましたが明治35年(1902年)7月4日に再び5銭で発売を再開しています。なにがあったのでしょうか、それはまだ調べていません。残念。)

明治41年(1908年)3月15日
桃園廳のある警部補(実名省略)は明治41年3月15日中壢支廳で発生した鉄道妨害事件取調中嫌疑者2名に対して粗暴の取扱をした。これは職務上不都合であるので文官懲戒令により依り譴責される。
(戦前の警察官って権力を笠に着て、乱暴な扱いが当たり前のようなイメージを持っていたんですが、この例そうでもないのですね)

昭和7年(1932年)3月15日
台湾総督府交通局総長白勢黎吉氏退任し、堀田鼎氏が就任。

昭和8年(1933年)3月15日
台湾私設鉄道規則施行細則改定
条文中、提出すべき図面や表に記載する曲線や勾配、面積などがインチ単位で規定されていましたが、メートル法に変更されました。

昭和8年(1933年)3月15日
大日本製糖株式会社鉄道中中庄線運輸營業開始許可
中庄~后里 15.4マイル
(細則がメートル法に変更になりましたが、これは申請時点にはマイルだったのですね)

日本統治時代台湾鉄道の今日 3月12日 [日本統治時代の台湾鉄道]

明治29年(1896年)3月12日
臨時台湾鉄道隊で使用する貨車について有蓋貨車100輛と大本営に請求していましたが、むしろ複数の車種を使用する方が現地の実情に合致しているということで、具体的に
 有蓋貨車 25輛
 無蓋貨車 35輛
 土運車 25輛
 ドコービール車 400輛
に変更しました。
ドコービール車とはDecauville、ドゴービルやドコービルという言い方があるなべトロのことだと考えます。

明治30年(1897年)3月12日
台湾中部横断鉄道調査に向かった深堀大尉の探検隊が行方不明になった件で、台湾総督は混成第2旅団長ヘ捜索を兼ねた鉄道調査隊を派遣するように訓令。

明治31年(1898年)3月12日
停車場及鉄道用地内掲示取扱内規を制定

大正5年(1916年)3月12日
台湾私設鉄道事故届出規程の一部改正
「事故は電信、電話その他即達の方法で事故発生地の最寄り警察署を経て庁長に報告すべし」を追加
電信、電話がかなり普及してきたということでしょうか。

大正10年(1921年)3月12日
基隆の鉄道建設(基隆街牛稠港、基隆駅北方約450m)について、基隆が軍事要塞地帯であったため基隆要塞司令部に許可申請を行いました。建設について軍事上の問題なしとの回答でした。

DC4_9904.JPG
なべトロはこんな形をしています(荒川知水資料館)
DC4_9912.JPG
軸受けにはDecauvilleの文字が(荒川知水資料館)

日本の台湾での鉄道建設最初の挫折、五堵隧道完成せず [日本統治時代の台湾鉄道]

日本は台湾領有後、清国時代に建設された鉄道の問題点を調査して改良工事に着手しました。線路変更の工事の内の一つ五堵隧道は開始したのにもかかわらず問題が多く発生し結局その工事を放棄せざるを得ない状況になりました。日本による台湾鉄道建設の最初の失敗例です。
現在の台北郊外、新北市汐止区の五堵の五堵隧道は長さ598フィート(約181m)複線の幅を持つトンネルで明治29年(1896年)2月12日に建設を開始しました。しかしその建設は決して順調ではなく、明治29年(1896年)10月1日に最初の土砂崩壊が導坑で発生し、続いて明治30年(1897年)2月8日にも再び崩壊が発生しました。それでトンネル内の支柱を強化して工事をすすめ、遂に4月下旬には貫通することができました。けれどもトンネル内の変形が止まらず基隆から台北を見て左側(山側)が膨張して行き、右側(基隆川側)に張り出し、徐々に補強にゆがみを発生していき、またトンネル内を補強整備した煉瓦やモルタルにもひずみが発生していきました。そしてついに明治30年(1897年)11月22日西側の入り口近くが20メートルにわたり土砂崩壊し、山のてっぺんに300坪の大穴が開くという事態になり、結局25日工事は中止となりました。その結果、五堵隧道は建設の放棄が決定し、別の路線をとることになりました。
日本側の想像を超える軟弱地盤、台風などの暴風雨による被害がひどい地域であったということでした。それは、その後100年を経過した2000年になっても、基隆川の氾濫により市街地に2メートル以上の洪水が発生し被害を受けたということでも、地理地形地層が厳しい地域だということが分かります。

その後に建築された新しい(といっても明治時代ですが)五堵隧道は現在新北市の史跡に指定されています。かつては炭鉱に接続する鉄道や人車軌道で栄えた五堵ですが、現在は高架化された鉄道がとおる、郊外通勤圏の駅となっています。


CIMG1842.JPG
五堵駅

台湾鉄道 最急勾配 20分の1 [日本統治時代の台湾鉄道]

清国時代に劉銘伝により基隆~新竹間の鉄道が完成していましたが、日本統治後の明治28年(1895年)9月30日にこの路線を実査した鉄道技師小山保政の報告書が提出されました。
これにはいろいろ技術的な問題点が記入されていますが、その中で「最急勾配20分の1」とあります。現在の勾配は千分率パーミル‰が用いられていますので1000m進んでどの位上下するかという値で標記され勾配標識もその値で表示しています。いつからその勾配標識がその様な表示になったかわかりませんが、昭和10年(1935年)の大阪鉄道局編「鉄道用語辞典」では、すでに現在と同じ標記の仕方になっています。鉄道現業從業員の規程に対する疑問点をQA形式でまとめた、大正3年(1914年)の「鉄道規程問答集」東洋書籍出版協会鉄道部編では勾配について50分の1(20パーミル‰) 以上という記述方でいろいろ書かれています。
ですから碓氷峠は66.7と半端な値だと思っていたのですが15分の1として設計されていると考えると納得です。パーミルに換算すると66.666・・・無限小数になり、丸めて66.7と表示しているわけですね。
で、20分の1は換算すると50パーミル‰になります。これはかなり急な勾配ということになります。早急に改善が必要との判断は妥当でその後に別線が計画され建設されました。
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